La mer bleue

紫野いき・4

「喜久子さん、お帰りの予定は何時かしら?」と母。
「一応、5時までには帰る予定です」
「そう、今夜は妃殿下がお忍びで我が家にお出ましになるからあなたも早く帰ってきてちょうだい」
「わかりました」

母の姉である某宮家の妃殿下は夫である殿下が亡くなられてからはひっそりと1人でお暮らしになっていて、時々我が家にお忍びでいらっしゃる。今夜もささやかではあるが妃殿下をお迎えしての晩餐が行われるらしい。

父は旧皇族の出身だが、因習やつまらない伝統にこだわりの無い人なので私は一目置いている。

それに比べると母はやはり旧華族出身というのが心の拠り所のようで家柄だの血筋だのに煩い。
だいたい、旧華族や皇族の狭い世界はみんな何らかの繋がりがあって、煩わしいにもほどがある。
今時、そんなの流行らないわ。なんて私が思っても母が変るわけではない。

「喜久子さま、お気を付けていってらっしゃいませ。なるべく早くお帰りくださいませね。」
と母のお付きのマキが言う。
マキはもう、70を過ぎているが母一筋に使えている。
何だか、時代錯誤だよ。と私は思うがマキは母に捧げた人生に満足しているようなので、私がとやかく言うことはないのだろう。

しかし、一番口うるさいのもマキなので少々迷惑なのだ。

一応、都内の一等地にある我が家は一軒屋。戦前は広大な屋敷に大勢の人々が仕えていたと聞いているが、私が生まれたときは父と母、そして母のお付であるマキの4人暮らし。

家もそんなに大きくは無い。父は旧宮家という肩書きを買われある企業の役員になっている。まあ、お飾りなのだろう。
そのお蔭で暮らしに不自由はないが贅沢に育った記憶も無い。
ごく普通の家と変わりの無い暮らしをしていると思っている。

違うのは、宮内庁からお迎え車がきて皇居や宮様方のお住まいにお招きに預かったり、旧皇族の集まりである菊花会に出席する事くらいか。

家を出て、歩きながら駅に向かう道すがら、グルグルと思いが駆け巡る。

昨日は学内でみんなにキスしている所を見られた。
あーあー、凄い事になってそう、そう思うと気が重い。
泰明はたぶん、今日はサボリでいないだろうし。

自分が招いた事とは言え、少し後悔している。

泰明は私などと付き合う気はないのだろう。

私も泰明の事を好きなのか?と聞かれれば好きと言うがどこに惹かれているのか?と聞かれれば、カッコイイからとかあの不良ぽい雰囲気が軟弱な他の学生に比べて惹かれる位。
公安の山田や両親が近づくなと言うからそれなら近づいて、いっそ付き合ってやれという反抗心もある。

お互いに電話番号もメアドも知らない。当たり前か!
泰明は私に「付き合う気はない」ってハッキリ言ったし。

よく考えてみると、私から一方的にキスしたり付き合ってと言っていたのだった。それを思い出すとカッとして顔が赤くなってしまう。これから、どうしたものか?

あと、1年と少し卒業まで私は泰明にキスして振られた女として過ごさなくてはならないのだ。早まった事をしてしまった。
私、泰明の側に行くと冷静な行動が出来なくなるみたいだ。

こんな時は新宿か六本木に繰り出したいけれど今夜は妃殿下のおでましがあるので大人しく帰宅が義務付けられている。
よい子の喜久子でいなければ、いけないようだ。ハァ。。。
朝から溜息が出てしまう。